金海空港に降り立つと、ほとんどの旅行者はそのまま釜山へ向かいます。私も最初はそうするつもりでした。けれど出発前に調べものをしていたとき、日本語の情報がほとんど見つからない場所にたどり着いたのです。それが金海ハングル博物館――韓国で初めて設立された、公立のハングル(韓国文字)専門博物館でした。
金海(キムヘ)は慶尚南道に位置する小さな都市で、釜山のすぐ西側に隣接しています。日本からの旅行者にとっては「釜山の空港がある街」という印象が強いかもしれませんが、ここはかつて伽耶(カヤ)連合の中心地でした。伽耶は高句麗・百済・新羅と並ぶ古代王国で、紀元42年から532年まで朝鮮半島の南東部に栄えた国です。王陵や遺跡がいまも街のあちこちに残っていて、春になると蓮池公園(ヨンジコンウォン)の桜並木が満開になり、韓国各地から花見客が訪れます。そんな金海に2021年11月、三階建てのハングル専門博物館が開館しました。この博物館が建てられた理由は、この地域出身の二人の国語学者にあります。金海空港からのアクセスは、釜山・金海軽電鉄に乗って約30分(13駅)。首露王陵(スロワンヌン)駅で下車し、1番出口から徒歩6分です。

目次
基本情報
| 項目 | 情報 |
|---|---|
| 住所 | 慶尚南道 金海市 分城路221 |
| 開館時間 | 9:00〜18:00(最終入場 17:30) |
| 休館日 | 毎週月曜日、1月1日、ソルラル(旧正月)当日、チュソク(秋夕)当日 |
| 入場料 | 無料 |
| 駐車場 | 無料(6台分) |
| 軽電鉄 | 首露王陵駅 1番出口より徒歩6分 |
| バス | 7番、14-1番、21番 → 金海保健所下車 |
ハングルを守り抜いた二人の学者
韓国全国にハングルの博物館は2か所しかありません。もう一つはソウル龍山にある国立ハングル博物館ですが、現在は増築工事のため2028年後半まで休館中です。つまり、いま韓国でハングルの歴史を体系的に見ることができるのは、この金海ハングル博物館だけなのです。
なぜ金海に建てられたのか。それはこの地域出身の二人の学者の存在にあります。
李允宰(イ・ユンジェ)先生は、20世紀前半、韓国語の使用や教育が厳しく制限されていた時代に朝鮮語学会へ参加し、朝鮮語大辞典の編纂に生涯を捧げた言語学者です。母国の言葉を記録し残すということ自体が、文化を守るための静かな行為でもありました。先生はその事業を完成させることなく生涯を閉じています。
その志を受け継いだのが、教え子の許雄(ホ・ウン)先生です。李允宰先生が言葉を「集めて記録する」ことに力を注いだのに対し、許雄先生はハングルの音韻体系や文法構造を学問として体系化する道を歩みました。館内には許雄先生の言葉が掲げられています。
「国の言葉は精神であり、民族文化の原動力である」
この二人の学者がいなければ、現在のハングルは違う形になっていたかもしれません。博物館は二人の業績を軸にしながら、1443年のハングル創製から現代に至るまでの歩みを丁寧にたどっています。

館内の見どころ
建物は三階建てで、規模自体はそれほど大きくありません。ただ、数千点の所蔵品があり、フロアごとに展示の雰囲気がしっかり変わるので、想像していた以上に見応えがありました。
| フロア | 内容 |
|---|---|
| 1階 | 案内デスク、企画展示室、事務室 |
| 2階 | 第1展示室(李允宰先生)、第2展示室(許雄先生)、特別展示室 |
| 3階 | 読書スペース、屋上庭園 |

第1展示室:辞書に生涯を捧げた人
二階に上がると、まず李允宰先生の記念展示室が広がります。壁面のガラスケースには20世紀前半の文献や出版物が並んでいますが、特に目を引くのはガラス越しに見える収蔵庫です。朝鮮語大辞典の原本や文法書、文芸読本といった資料が、保管された状態のまま覗けるようになっています。
中でも足を止めて見ておきたい展示物をまとめました。
| 展示物 | 見どころ |
|---|---|
| 宣祖国文諭書 | 宝物第951号。16世紀末の戦乱のさなか、宣祖が民に向けて発した韓国初のハングル公文書。一般の民衆にも直接意味が伝わるよう、あえてハングルのみで書かれています |
| 金承泰万歳運動歌 | 金海・長遊地域の民族運動を率いた金承泰の母親がハングルで記した歌。女性が自らの手で歴史の記録を残した貴重な史料です |
| ハングル誌(1927年創刊号) | 朝鮮語研究会がハングルの普及を目的に創刊した雑誌。李允宰先生の論考が創刊号に掲載されています |
| 朝鮮語大辞典(原本) | 李允宰先生が編纂に生涯を注いだ辞書の原稿。 ハングルの近代史を物語る資料です |

第2展示室:師の志を継いだ教え子
隣の展示室では許雄先生にスポットが当たります。第1展示室がアーカイブ的な静けさを持っているのに対し、こちらは「知識が世代から世代へどう受け継がれていくか」という、もう少し広い視点で構成されています。許雄先生の音韻研究や文法研究が、時代ごとの教育資料と並べて紹介されていました。

一角には懐かしい韓国の教室が再現されていて、時代ごとの国語教科書が並んでいます。韓国語を勉強したことがある方なら、教科書のデザインや紙面の雰囲気が年代ごとに変わっていく様子を見るだけでも、つい手が止まってしまう空間です。

奥の本棚には関連書籍が自由に閲覧できるように並べられていました。5分だけ座るつもりが、気がつくと20分経っている。そんな種類の静かな場所です。
二つの展示室を歩き終えたあと心に残ったのは、ハングルを守るためにどれほど多くの人が、それぞれの方法で力を注いできたのかということでした。辞書を編む人がいて、雑誌を刊行する人がいて、歌詞としてハングルで書き留める人がいました。やり方は一人ひとり違っても、文字を次の世代へ残したいという思いだけは同じだったのです。

特別展示室では龍飛御天歌の全125章にまつわる資料と宮廷音楽を体験できます。
特別展示室:ハングルで書かれた最初の歌
二階の奥にある特別展示室では、龍飛御天歌(ヨンビオチョンガ)が紹介されています。これは世宗大王がハングルを公布した直後に制作された、ハングルで書かれた最初の文学作品です。全125章、10巻5冊から成る大作で、全編がハングルで綴られています。
展示室ではこの作品に合わせて演奏された宮廷音楽を聴くことができます。致和平(チファピョン)、酔豊亨(チュイプンヒョン)、与民楽(ヨミンラク)という三つの楽曲が静かに流れていて、伝統楽器の音色には不思議な奥行きがあります。思わず立ち止まって、ただ耳を傾ける――そういう時間でした。

一階・三階、そして裏手のハングル文化公園
二階から階段で三階へ上がると、読書スペースがあります。書籍や資料が並べられた静かな空間で、屋上テラスからは周囲の街並みを眺めることもできます。派手な眺望ではありませんが、展示のあとに少し気持ちを落ち着けるにはちょうどいい場所です。
一階に戻ると、企画展示室があります。訪問時には「スマートな国語生活」という展示が行われていました。韓国の小学校で使われてきた国語教科書の移り変わりをたどる内容で、韓国の方にとっては懐かしく、外国人にとっては「この国はどうやって子どもたちに自国の言葉を教えてきたのか」を垣間見られる展示です。当時の教室で歌われていた童謡の音源も聴くことができます。

博物館の裏手にはハングル文化公園が続いていて、遊具のある広場や散策路が整備されています。お子さん連れの方には特にありがたい空間ですし、室内の展示を見たあとに少し体を動かすにもちょうどいい場所です。
博物館の先へ:首露王陵駅の周辺でできること
この駅で降りて驚いたのは、一つの軽電鉄駅の周辺にこれだけの施設がまとまっていることでした。博物館だけでなく、半日コースが自然に組み立てられてしまいます。
| スポット | 内容 |
|---|---|
| 首露王陵 | 伽耶王国の建国者とされる首露王の陵墓。石像や祠堂に囲まれた静かな史跡公園で、入場は無料です。駅から徒歩約5分。 |
| 大成洞古墳博物館 | ユネスコ世界遺産に関連する伽耶時代の古墳群から出土した遺物を展示しています。徒歩圏内です。 |
| 新世界(シンセゲ)百貨店 | 駅の目の前にある大型百貨店。ショッピングや食事が楽しめます。 |
| Eマート | 韓国を代表する大型スーパー。韓国のお菓子やインスタント麺、K-ビューティー製品など、お土産を現地価格で購入できます。 |
| 金海バスターミナル | 金海市の総合バスターミナル。釜山をはじめ、周辺都市への直行バスが出ています。空港まで戻らずにそのまま移動できるので便利です。 |
午前中に文化と歴史を楽しみ、新世界百貨店でランチ、Eマートでお土産を選んで、そのままバスで釜山へ。この流れが一つの駅で完結してしまうのです。

1443年にハングルを創製した世宗大王。博物館ではその歩みを展示でたどることができます。
まとめ
40分くらいで見終わるだろうと思っていた金海ハングル博物館でしたが、気がつけば2時間近く滞在していました。第1展示室の収蔵庫、第2展示室の再現教室、特別展示室に流れる宮廷音楽、そして裏手の公園。どのフロアにも、もう少しだけ足を止めたくなる何かがありました。
この博物館はガイドブックの「おすすめ10選」に載るような場所ではありません。でも、だからこそ訪れてよかったと感じています。静かで、入場無料で、そしてほとんどの旅行者がまだ知らない物語を伝えてくれる場所です。
辞書を編んだ人がいました。音韻を体系化した人がいました。やり方は違っても、一つの文字を次の世代へ残そうとした人たちの思いが、展示室の静けさの中にそっと漂っていました。
金海空港に降り立ったとき、もし釜山行きのバスまで数時間あるなら、軽電鉄に乗って首露王陵駅まで足を延ばしてみてください。博物館を出て釜山へ向かうバスの車窓から、街のあちこちに見えるハングルの看板が、来たときとは少しだけ違って見えるかもしれません。
よくある質問(FAQ)
金海ハングル博物館の入場料はいくらですか?
入場料は無料です。駐車場も無料で利用でき、6台分のスペースがあります。2021年11月の開館以来、入場料は設定されていません。
金海空港からはどうやって行けますか?
金海空港駅から釜山・金海軽電鉄に乗り、13駅先の首露王陵(スロワンヌン)駅で下車します。所要時間は約30分です。1番出口を出て徒歩6分で博物館に到着します。
開館時間と休館日はいつですか?
開館時間は9:00から18:00まで、最終入場は17:30です。毎週月曜日、1月1日、ソルラル(旧正月)当日、チュソク(秋夕)当日が休館日となっています。
見学にはどのくらいの時間がかかりますか?
博物館の展示だけであれば60分から90分程度です。裏手のハングル文化公園や、近くの首露王陵も含めて回る場合は2〜3時間ほど見ておくとゆっくり楽しめます。
館内に日本語の案内はありますか?
展示の説明は主に韓国語で書かれていますが、一部に英語の表記もあります。映像展示や音声コーナー、復元された教室など、言葉がわからなくても視覚や体験で楽しめる展示が多いため、翻訳アプリを併用すれば十分に満喫できます。
子ども連れでも楽しめますか?
楽しめます。時代ごとの教科書を手に取れる教室コーナーや、童謡を聴ける音声展示があり、お子さんにも親しみやすい構成です。博物館の裏手にはハングル文化公園の遊具広場もあるため、展示のあとに体を動かすこともできます。入場無料なので気軽に訪れやすい点も家族連れには好評です。
博物館の周辺にはほかに何がありますか?
最寄りの首露王陵駅の周辺には、伽耶王国の首露王陵(徒歩5分・無料)、大成洞古墳博物館、新世界百貨店(免税対応あり)、Eマート(韓国のお菓子やコスメをお土産用に購入可能)、金海バスターミナル(釜山行き直行バスあり)が集まっています。